2009年06月24日

江戸時代まで

鹿野場遺跡、六ツヶ塚遺跡などから約3万年前の石器が出土しており、この地域には当時から人が定住していたと考えられている。
日立が初めて文献に登場するのは、「常陸国風土記」である。
戦国時代には佐竹氏の領土に入った。しかし、江戸時代になると佐竹氏が秋田に飛ばされ、代わって水戸藩の領土に入った。
1695年旧9月 徳川光圀が神峰神社に参拝した時、海上から朝日の昇る様子を「朝日の立ち上る様は領内随一」として、一帯を日立と命名した。

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明治維新以後
1897年2月25日 日本鉄道大甕駅と下孫駅(現常陸多賀駅)、助川駅(現日立駅)、川尻駅(現十王駅)が開業。
1905年 久原房之助による日立鉱山の開発に伴い鉱山町として発展を始め、その従業員であった小平浪平が設立した日立製作所の規模拡大によって工業都市へと発展した。
1914年12月 日立鉱山から排出される煙害対策として、大煙突が完成。
1928年12月27日 常北電気鉄道(後の日立電鉄)が大甕?久慈(現久慈浜駅)間を開業。
1929年7月3日 常北電気鉄道が久慈(現久慈浜)?常北太田駅間を開業。 
1939年9月1日 多賀郡の日立町と助川町が合併し、日立市となった。(県内2番目)
1945年:艦砲射撃(7月17日)と日立空襲(6月10日と7月19日の2度)で被災。その被災規模は北関東でも上位であった。
1947年9月1日 日立電鉄が大甕?鮎川駅間を開業。
1993年2月19日 市のシンボルであった大煙突が倒壊。
2004年11月1日 十王町を編入。
2005年4月1日 日立電鉄線が廃止される。

広域事務
高萩市・日立市事務組合
茨城県市町村総合事務組合
日立・高萩広域下水道組合
茨城北農業共済事務組合
茨城租税債権管理機構

2009年06月09日

強制外交(きょうせいがいこう)とは

強制外交(きょうせいがいこう)とは、相手国の敵対的な行動を撤回させることを目的に、限定的な軍事力や威嚇を用いて行う外交政策である。

通常の外交交渉における説得や駆け引きだけでは、相手国の敵対行動を撤回・譲歩させることが困難である場合、限定的な軍事力を威嚇的、警告的、対抗的に使用することによって相手国に自発的な行動の撤回を引き出そうとする外交政策である。外交交渉、妥協、駆け引きを用いながら展開するため、通常の強制措置とは本質的に異なる外交政策である。この場合重要なのは軍事的な対立状況にありながらも相手国と外交的な繋がりを維持することである。外交的なコミュニケーションを維持しながら軍事作戦を展開することによって、全面戦争のリスクを管理しながら外交交渉を展開することが可能である。強制外交の利点は伝統的な武力攻撃に比べて少ない被害で政治的目的を達する可能性があり、また政治的軍事的なコストや戦争がエスカレーションするリスクが小さいことである。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

強制外交を展開する場合にはいくつかの相手国の条件が必要である。相手国がこの条件にかけていれば、大国がどのような威嚇を行ったとしても有効に機能しない危険性が高い。

相手国が要求を遵守するという切迫感を持っていること。
強制する側が問題に対してより強い動機を持って強制外交を展開することを相手国が認識していること。
対立がエスカレーションすることに対する恐怖感を持っていること。
また太平洋戦争や湾岸戦争などに見られるように文化的、心理的、政治的な非合理性を考慮に入れなければならない場合もある。太平洋戦争開戦直前の対日交渉が失敗した大きなアメリカの外交政策の欠点は日本の価値観という変数的な要素を計算に入れなかったことが大きいと考えられている。

2009年06月06日

平安時代になると、日本国内での製鉄技術は

平安時代になると、日本国内での製鉄技術は大陸と遜色ないレベルにまで達した。さらに、従来の真っ直ぐな剣から、湾曲して人を斬りやすく、また馬上での戦いに適した形に進化し、やがて現在まで伝わる日本刀の原型ともいえる剣が登場する。

平安時代の日本においては、中国・朝鮮半島との紛争が沈静化し、隼人や蝦夷との戦いも終わりが見え始めて国内統一が実現されたこともあって、儒教の影響以前に、日本古来の呪術的発想から、軍事力ないし警察力の行使というケガレ仕事は国家の制度の内に公式のものとして存在を認めないという世界でも類の少ない特異な制度が採用された。

このことによって、逆に地方における警察力の欠如の環境での生存確保のためには、紛争における自力救済が必要とされ、平安時代以降、各地の自衛農民団、もしくは自衛海運業者団としての武士団の発展を促した。 このころに日本刀が「片手持ち」から、柄が長くなり「諸手持ち」へと変わり現在にいたる。これにより平時において、瞬時に人を殺傷し得る能力を持った、武士に不可欠な日本刀と剣術とを組み合わせた様式は、この時代までには確立された。

戦国時代の剣術(兵法)は、戦場での総合的な戦闘技術を包括したものであった。

当時の戦場での刀剣の使用において、太刀は主兵器ではなく、体格に優れた者が野太刀・大太刀などの長大な刀をひたすら振り回して軽装歩兵に対して斬りつけるという方法か、騎兵突撃の際に加速のついた状態で馬上から敵の手足顔面を強くこすり斬るというのが一般的だった。多くの戦国大名が巨身の「力士」を雇い入れることに熱心であったのは、彼らでなければ振り回せない長刀を装備した上で、力士隊として編成して身辺警護や特殊兵力に用いるためであった。戦場で重装備の相手に対しては、太刀よりも槍・薙刀や棒のほうが適している。甲冑を装着した武者同士の太刀による戦闘方法は、当然、巨人がただ刀を振り回せばよいものとは異なり、介者剣術と呼ばれ、深く腰を落とした姿勢から目・首・脇の下・金的・内腿・手首といった、装甲の隙間となっている部位を突斬りで狙うようなスタイルであった。甲冑武者同士の戦闘は最終的には組討による決着に至ることが多く、ここにおける技法が組討術であり後の柔術の源流の1つとなった。今日の柔道も、その柔術より派生したものである。

今日伝わる剣術の流派は「京八流・関東七流」を源流とする伝えられる。

京八流は、平安時代末期に源義経を指導したといわれる陰陽師・鬼一法眼の8人の弟子に発すると伝わる(真偽は不明)。京八流を祖とすると伝える流派は、鞍馬流・念流・中条流・吉岡流などである。

関東七流は、日本神話で葦原中国平定を成功させた経津主神と建御雷神が香取鹿島地方に居ついて以降、神代より香取神宮・鹿島神宮の神職に伝承され、その7家から発すると云われる。そこから新当流・念流・陰流という今日現存する日本の剣術の源流とされる3流派が生じたと云われる。
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新当流は香取神道流など神道流(新当流)系、念流は馬庭念流、中条流系の諸流派(富田流や一刀流など、念流の開祖は念阿弥慈恩、また馬庭念流の樋口家に伝わる古文書に、慈恩の弟子として「中条判官」や「猿御前」という名が記されているが、念流では中条判官は中条兵庫頭、猿御前は愛洲移香斎と伝えている)、陰流は、新陰流(柳生新陰流)系につながる。ただし現在の武道史の研究では、京八流・関東七流の実在を確認できないため、単なる伝説と扱うのが一般的である。

戦国時代も後期になるにつれ、一種の専門職としての剣術者が認識され、各地を渡り歩くようにもなった。彼らは、己の郎党を率いて戦場で働くことで戦功を重ねて、最終的に国取り、城持ちを目指した。これは軍人かつ政治家として大成する常道的なコース(例えば豊臣秀吉)ではなく、ひとえに剣術の卓越によって禄と名声を得ることを目的としていた。多くの流派の開祖はこのような人々であり、伊東一刀斎・塚原卜伝・上泉信綱(秀綱)・柳生宗厳・富田勢源・東郷重位といった大物の開祖が戦国時代後期から安土桃山時代にかけて輩出されている。

またこの時期に竹刀の元になった袋竹刀やひきはだ撓と呼ばれる道具が各流派の稽古に使われるようになったと考えられている。

2009年04月23日

うま味調味料

うま味調味料(うまみちょうみりょう)は、うま味の元となる物質(グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸)を精製した調味料の一。代表的なうま味調味料にグルタミン酸ナトリウムを主成分とする「味の素」がある。製品は一般に結晶状の粉末として供給され、これを水やスープに溶かして使用する。食品や料理に直接粉末をかけて使用することもある。 1970年代までは、公式な一般名称として「化学調味料」(かがくちょうみりょう)と呼ばれた(詳細は後述)。複合調味料という言い方もする。

1908年に日本の池田菊苗によってうま味という味が発見され、そのうま味を引き起こす成分であるグルタミン酸ナトリウムの生産が日本で開始された。初期の製造法は、蛋白質を加水分解するというものだった。

1960年代、微生物による製造が可能になり、こちらの製法のほうが安価で大量に生産できることから、順次、微生物による製法に切り替わった。「化学調味料」の呼称が普及する。

1980年代、業界団体が「うま味調味料」という語を造り、その使用を提唱しはじめた。

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製法
各国により製法の違いがあるが、日本で多く取られているのは、サトウキビの廃糖蜜(糖蜜から砂糖を抽出した残渣、いわゆるモラセス)を特定の条件下である種の微生物に与えて微生物にグルタミン酸を生成させ、これを回収して水酸化ナトリウムと反応させてナトリウム塩とし、調味料とする方法である。トウモロコシなどの澱粉を酵母に与え、生成されたイノシン酸ナトリウム、グアニル酸ナトリウムを製品の成分とする製法もある。

かつて日本でも石油を原料としていた時期があったが、発癌性が指摘されているタールの混入が疑われた問題などから現在では上記の方法が主流となっている(詳細は味の素参照)。インドネシアでは豚を原料とする酵素を使用したため、イスラム教の禁止食品に認定され、あわてて回収する騒ぎもあった。その後製法を変えている。

2009年04月19日

アレシアの戦い

アレシアの戦い(ラテン語:Alesiae pugna, 仏: Siège d'Alésia)、あるいはアレシア包囲戦とは、紀元前52年の8月から10月にかけてガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍と、ウェルキンゲトリクス率いるガリア人連合軍との間で行われた戦闘である。古代ローマにおける包囲戦の中では、最も大規模なものの一つであった。

この戦いの結果、紀元前58年から続いたガリア戦争は実質的に終結し、ガリアはローマの属州となってその版図に組み込まれることとなった。

紀元前53年の戦いでカエサルに敗北を喫して、指導者であったアッコを処刑されたカルヌテス族を中心として、依然ローマへ敵対する動きは活発であった。 紀元前52年、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスは族内の親ローマ派の反対を押し切って[1]対ローマへ乗り出すことを表明して、アルウェルニ族以外にセノネス族・アウレルキ族・ピクトネス族らが共同でウェルキンゲトリクスにガリア連合軍の最高指揮権を委ねることを決定した。

ウェルキンゲトリクスは未だ去就を定めかねているガリア諸部族に対して決起を呼びかけた。ウェルキンゲトリクスは結束を強めるため、各部族から人質をとり、命令に従わないものは容赦なく処罰した。このようにしてガリアを糾合したウェルキンゲトリクスは、まずケナブム(現:オルレアン)のローマ人を虐殺し、ローマに対して宣戦布告した。過去のローマ軍の戦い方を研究していたウェルキンゲトリクスは、正面決戦では太刀打ちできないと考え、徹底した焦土作戦とゲリラ戦を展開した。重要拠点を除いて都市や村を焼き払い、食料や家畜も最低限のもの以外は残さなかった。これによってローマ軍の兵站の破壊を狙ったのである。

このガリア総決起に対しカエサルは、アンビオリクスに敗れた紀元前54年の過ちを繰り返さぬよう、冬営中の10個軍団を素早く結集させた。焦土作戦によって兵站を敵地に頼ることが出来ない苦しい状況であったが、カエサルは攻撃を決意した。ローマ軍はまずケナブムを奪取し、次いでアウァリクム(現ブールジュ)を目標に定めた。アウァリクムはビトゥリゲス族の中心都市で、全ガリアの中心に位置する戦略上の要衝でもあり、また焦土作戦の対象から外れていたため、兵站の策源としても申し分なかった[2]。4月までにローマ軍はアウァリクムを制圧、カエサルは見せしめのために住民と守備隊の40,000人を皆殺しにした。

兵站の問題が解決したローマ軍はより積極的な作戦行動に移った。カエサルはティトゥス・ラビエヌスに4個軍団を与えて北部での作戦を委ね、自身は6個軍団を率いてアルウェルニ族の領地である南部を攻撃した。しかし、ウェルキンゲトリクスは粘り強く抵抗し、さらにゲルゴウィアの戦いでカエサルを破った。この予期せぬ敗北に、カエサルはガリア・ナルボネンシス(現在のプロヴァンス一帯)まで後退し、戦力を再編しようとした。撤退の途中でカエサルは、精強なガリア人騎兵に対抗するため、ゲルマン人騎兵を雇い入れた。その際にカエサルはゲルマン騎兵を即戦力とするため、ゲルマン人の貧弱な乗騎とローマ騎兵の健康な乗騎を交換させた。

山岳地とアルウェルニ族支配地域を迂回するため、ローマ軍は一度北上してから東方へ転じた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追尾し、ディジョン近辺で攻撃を仕掛けた。しかし、ゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同行動によってガリア軍は敗退した。ガリア軍は逆に追われる立場となり、マンドゥビイ族の都市アレシアへ逃げ込んだ。カエサルはこれを好機と見て包囲に移った。間もなくラビエヌスの軍団も合流し、包囲軍はローマ正規軍12個軍団と、ゲルマン人騎兵、クレタ人投石兵、ヌミディア人軽装歩兵等を合わせて約60,000人となり戦力的な不安は解消された。

アレシアは二本の川に挟まれた丘の上に作られた要害の都市だった。強襲をかけても損害を出すだけと見たカエサルは、包囲線を築いて敵の消耗を待つ作戦を選択した。ウェルキンゲトリクスのガリア軍80,000人とアレシアの本来の住民が包囲下にあり、それだけ兵糧の消耗も激しいと考えたのである。

アレシア包囲線については『ガリア戦記』に極めて詳細な記述がある。

総延長18キロメートル、高さ4メートルの土塁を築き、アレシア全体を囲んだ。土塁は木材と石材で強化され、敵兵が取り付けないように逆茂木が植えられていた。
土塁の手前には幅4.5メートル、深さ1.5メートルの壕を2列掘り、アレシア側の壕には川から引いた水を満たした。
2列の壕の手前には、深さ1.5メートルの壕が5列掘られ、底には引き抜けないように根元を結び合わせた逆茂木を並べた。これは「墓標」 (Cippi) と呼ばれた。
墓標の手前には、深さ1メートルの穴を1メートル間隔で市松模様に8列掘り、底には先の尖った杭を埋め、穴の上は小枝や草でカモフラージュした。これは「百合」 (Lilium) と呼ばれた。
百合の手前には、両端に鉄製の鉤をつけた杭が大量に打ち込まれた。これは「刺」 (Stimulos)と呼ばれた。
刺の先からアレシアまではある程度の空白地帯を設け、その先に幅6メートルの壕を掘った。
土塁内の各所には防御拠点となる監視所を23ヶ所、出撃拠点となる野営地を7ヶ所設け、包囲線のどこに攻撃が加えられても救援が送り出せるようにした。

ウェルキンゲトリクスは工事を妨害するために何度か騎兵を送り出したが、ゲルマン騎兵の奮戦によってことごとく撃退された。内側からの包囲線の突破は不可能と判断したウェルキンゲトリクスは、同盟部族へ解囲軍を要請する使者を派遣した。

第一の包囲線が完成すると、ローマ軍は今度は解囲軍の攻撃を防ぐため、外周部に同様の土塁・壕・墓標・百合・刺を設けた。外周部の土塁の総延長は21キロメートルに及んだ。こちらも内周部と同様に3週間ほどで完成した。これによってアレシアは二重の包囲線で完全に取り囲まれることとなった。工事が完成すると、カエサルはローマ軍60,000人の30日分の食料を運び込ませ、外との連絡を断たれても抵抗できるようにした。
ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ


包囲下にあるアレシアでは、人心の動揺、居住環境の悪化、食糧不足といったいくつかの深刻な問題が生じていた。ウェルキンゲトリクスは、軍内の意見を採用し口減らしのために戦闘に耐えられないアレシアの本来の住民であったマンドゥビイ族を都市から追い出すことにした。都市から追い出されたマンドゥビイ族は、奴隷になるから食糧を恵み、助けて欲しいとローマ軍に懇願したが、カエサルはこれを無視した
9月末、歩兵250,000、騎兵8,000の解囲軍が到着、アレシアの南西に陣地を築いた。翌日、解囲軍は包囲線に対して強襲を仕掛け、これに合わせてウェルキンゲトリクスも出陣した。ローマ軍の防備は堅く、ガリア軍は日没まで攻撃を仕掛けたものの、包囲線に取り付くことすら出来ず、多大な損害を出して撤収した。

翌日、ガリア軍は南西から夜襲を仕掛けた。この試みはある程度の成功をおさめ、ガリア軍は土塁まで取り付くことに成功した。この騒動を察知したウェルキンゲトリクスも直ちに出陣し、再び内から包囲線の突破を試みた。これに対しカエサルは、マルクス・アントニウスとガイウス・トレボニウスに騎兵を委ねて迎撃するよう命じた。アントニウスとトレボニウスは、まず包囲線の外に出撃し、しかる後土塁に取り付いている解囲軍の後方に回り込んだ。解囲軍は挟撃の危険を察知し、夜明けを待たずに撤収した。ウェルキンゲトリクスの軍もやはり包囲線を突破できず、アレシアに引き上げた。

この頃になると、ローマ軍も食料が欠乏し始め、苦しい状態になっていた。包囲下のアレシアはなお悪い状態だった。もはや時間的な余裕はなく、解囲軍は最後の攻撃を仕掛ける決意をした。ウェルキンゲトリクスの従兄弟ウェルカッシウェラウヌスは、ローマ軍の包囲線の弱点は北西にあると看破した(図の円で囲まれた地点)。この地点は、地形的制約から包囲線が途切れていたのである。この不備を補うため、カエサルはこの地に2個軍団を置いていた。

10月2日、ウェルカッシウェラウヌスは60,000の軍を率いて北西から攻撃を仕掛けた。同時に残りの解囲軍は南西から総攻撃を仕掛け、ローマ軍を引き付けた。さらに包囲下のウェルキンゲトリクスも出陣し、南西と北西の二手に分かれて突破を図った。この二点同時攻撃はローマ軍を動揺させた。ガリア軍の攻勢は順調に進み、北西の包囲線は崩壊の危機にさらされた。カエサルはティトゥス・ラビエヌスに6個大隊を委ね、北西の防御に向かうよう命じた。急行したラビエヌスは、崩れかけていた戦線を立て直すことに成功したものの、依然としてウェルカッシウェラウヌスの攻勢は強力で、今にも突破されかねなかった。

カエサルはデキムス・ユニウス・ブルートゥスに騎兵6個大隊、ガイウス・ファビウスに騎兵7個大隊を委ねて先に出撃させ、しかる後、自ら最後の予備を率いて出撃した。緋色のマントを身に着けた総司令官の姿が現れたのを見ると、これを討ち取るべくウェルカッシウェラウヌスは矛先を転じた。こうしてカエサルが敵を引き付けている間に、先行させていたブルートゥス、ファビウスの騎兵がガリア軍の後方を突き、さらにラビエヌスの軍も反撃に転じた。パニックに陥ったガリア軍は間もなく壊滅し、ウェルカッシウェラウヌスは捕虜となった。友軍の壊滅を目にした南西の解囲軍は意気阻喪して撤収し、ウェルキンゲトリクスもアレシアに引き上げざるをえなかった。こうして最後の解囲作戦も失敗した。

翌日、ウェルキンゲトリクスは全ての将兵を集め宣言した。

「この戦いは己の栄誉のためではなく、全ガリア人を解放するための戦いだった。運命が私に敗北を与えたのならば、それに従うことにしよう。私を殺すか、あるいは生きたままローマ軍へ引き渡すか、諸君らが選択したまえ」
ガリア人はローマにウェルキンゲトリクスを引き渡すことを選んだ。ウェルキンゲトリクスは族長たちを率いてローマ軍の包囲線の前まで進み出た。族長たちの武器を集めたウェルキンゲトリクスは、自らの武器とともにローマ軍に差し出した。ガリアの王はローマの前に屈した。プルタルコスはウェルキンゲトリクスの降伏の様子を次のように記述している。「ウェルキンゲトリクスは、最上の武具を身にまとい、飾った馬にまたがってアレシアを出た。ローマ軍の陣地へ入ったウェルキンゲトリクスは、着座するカエサルの周りを馬にまたがったままで悠々と一周した。しかる後、ウェルキンゲトリクスは馬から下り、全ての武具を脱ぎ捨て、カエサルの足元で跪いていたが、ローマ兵に拘束された」。[6]

ガリア軍と生き残ったアレシアの市民は全て捕虜となった。アルウェルニ族とハエドゥイ族は、ローマの寛大さを見せつけるため解放され、一部はカエサルの軍団に吸収された。その他のガリア人は、兵士一人につき一人ずつ奴隷として与えられた。
ローマ軍
総司令官 : ガイウス・ユリウス・カエサル
副官 : ティトゥス・ラビエヌス、デキムス・ユニウス・ブルートゥス、ガイウス・ファビウス、マルクス・アントニウス、ガイウス・トレボニウスほか
兵力 : ローマ軍団 12軍団 歩兵 30,000?60,000および騎兵(諸説有)
ガリア軍
アレシア
指揮官 : ウェルキンゲトリクス、クリトグナトゥス
兵力 : 歩兵 80,000
解囲軍
指揮官 : コンミウス(アトレバテス族)、ウィリドマルス、エポレドリクス(共にハエドゥイ族)、ウェルカッシウェラウヌス(アルウェルニ族)
兵力 : 歩兵 250,000、騎兵 8,000(諸説有)
上記の数字は全て『ガリア戦記』に基づいているが、現代の歴史家は、おそらくアレシアのガリア軍が20,000から30,000、解囲軍は50,000から70,000、つまりローマ軍とほぼ同等であろうと考察している。

ウェルキンゲトリクスの降伏は、実質的に全ガリアにおける抵抗の終焉を意味した。その後も抵抗を続ける部族もいたが、カエサルによって平定され、紀元前51年には全ての部族がローマの支配下に置かれた。ガリアはローマの属州となり、ガリア・ルグドゥネンシス、ガリア・ベルギカ、ガリア・アクィタニアの3つの管区へ分割された。

カエサルはガリア征服の成功により、ガリアのパトロネジとなり、そこから得られる莫大な資金・人材・資源を元に自らの立場を強化した。莫大な富と名声を手に入れた(とは言え、地中海沿岸に比べて未開地が多いため、のちのグナエウス・ポンペイウスらとの内戦の時には財力などで後手を取っていた)。元老院は特別のはからいとして、通常は5日間までと定められていた凱旋式を20日間開くことを許可したが、カエサルはこれを断った。

ウェルキンゲトリクスは、6年間の捕虜生活の後、内乱に勝利したカエサルがローマで行った凱旋式の後に処刑された。19世紀、自由主義とナショナリズムの盛り上がりにつれて、ウェルキンゲトリクスはガリア(フランス)の自由と独立を求めた英雄として評価されるようになった。同様にアンビオリクスはベルギーの英雄として評価されるようになった。

アレシアの位置は長年にわたって疑問の的だった。候補地としてはフランシュ=コンテのアレーズ(Alaise)、コート=ドールのアリーズ=サント=レーヌ(Alise-Sainte-Reine)の2ヶ所が上げられていた。

1860年代、フランス皇帝ナポレオン3世は、この問題を解決するための発掘資金を提供し、調査の結果、アリーズ=サント=レーヌでローマ軍の野営地跡を発見した。ナポレオン3世は、発掘された台座の上にウェルキンゲトリクスの彫像を築いた。2004年に航空考古学の調査によって、包囲線の痕跡と思われるものが発見され、アリーズ=サント=レーヌこそアレシアであると結論付けられた。現在、同地にはアレシア包囲線を復元した建物が築かれている。

しかしながら、アリーズ=サント=レーヌはアレシアではないとする声も依然として存在する。周辺の地形がガリア戦記の記述と食い違うこと、80,000人を収容するには狭すぎること、などが主な反論である。もっとも、上記のようにカエサルの記述とはいえ全幅の信頼を置くことはできない。

他の候補地としては、ジュラ山脈のショウ・ド・クロテネー(Chaux-des-Crotenay)も、ガリア戦記の記述に近い地形であるとされているが、未だ発掘調査も進んでいない。

2009年04月04日

手 (沖縄武術)

手(ティー)とは、空手以前に存在したとされる、沖縄県の琉球王国時代の武術である。
「手(ティー)」という武術が何であるかについては、空手家や研究者によって見解が異なる。しかし、今日では、大体以下に示すように二通りの意味で使われている。

現代の空手の直接の源流である「唐手(からて)」の意味。
唐手以前に存在した「沖縄固有の武術」の意味。いわゆる「沖縄手(ウチナーディー、おきなわて)」と呼ばれた武術。

手=唐手 [編集]
「手」とは、沖縄方言で第一義にはもちろん手首から先の手のことであるが、元来は武術に限らず『手法』を意味する言葉でもある。武術家がこの語を使う場合は、「…の武術」もしくは、単に「武術」一般を意味する言葉であった。それゆえ、明治の唐手家たちにとって、「手」といえば、単に唐手のことを意味していた。

唐手の言葉の起源は、唐手佐久川(トゥーディーさくかわ)こと、佐久川寛賀(1782年 - 1838年)に始まるとされる。佐久川は20代の頃、進貢船に乗って中国へ留学し、当地で中国武術を学んだとされる。この佐久川が帰郷して伝えたのが、今日の空手の起源となる武術だったのだろう。それゆえ、佐久川が帰国した当時は、唐手とは文字通り「唐(中国)の手」、すなわち中国武術の意味であった可能性が考えられる。それが廃藩置県までの約80年間を通じて、それ以前に存在した「沖縄手」と融合しながら、独自の唐手に変化を遂げていったものと思われる。いずれにしろ、唐手は佐久川以降、19世紀初頭からはじまった比較的新しい武術だったのである。

手=沖縄手 [編集]
沖縄手という言葉は、船越義珍(富名腰義珍)の著作に見られる言葉で、船越によれば、明治初期の唐手の古老たちは、中国発祥の武術を唐手(トゥーディー)と呼び、それに対して、固有の武術を沖縄手(ウチナーディー)と呼んで区別していたと言う。(『空手道一路』)

また、船越は『空手道教範』(1935年)の中で、「近世支那(しな)崇拝熱の高い時代に、数多の武人が支那と往来して支那拳法を稽古し、古来の拳法いわゆる『沖縄手』に之(これ)を加味して研究し、短を捨て長を採り、愈々(いよいよ)精妙を加えた」と説き、「沖縄手に中国拳法が加わってできたものが唐手であるとの説」を主張している。

また、摩文仁賢和によれば、「唐手(からて)」という呼称は明治34、5年頃(正確には明治38年)、学校教育に採用された時につくられたものであり、それ以前の沖縄県の唐手家達は「沖縄拳法のことを単に『テ』と称するのに対して、支那拳法を『トーデ』と称して区別しておりました」と述べている。(『空手道入門―攻防拳法』)

沖縄固有の武術の存在については、彼ら以外にも、安里安恒、本部朝基といった、戦前の著名な唐手家が自著や新聞紙上で、その存在について言及しており、当時の唐手家達にとっては自明であったようである。最近では、「手」といえば、この唐手以前の沖縄手を指して、用いている研究者や空手家の方が多いようである。

起源 [編集]
ただし、沖縄手の起源となると諸説がある。安里安恒は、琉球新報(大正3年1月17日)で発表した「沖縄の武技」という記事において、「沖縄固有の武芸にして田舎の舞方なるものが、いわゆる唐手の未だ発達せざる時代のそのままであらう」と述べている。「舞方(メーカタ)」とは「踊り」を意味する沖縄方言である。つまり、安里は琉球舞踊から沖縄手が生まれ、それが唐手へと発展したと説いている。

一方で、沖縄手も基本的に唐手のように「型」によって伝えられてきたとし、型の名称が沖縄方言では説明がつかず、むしろ古い福建語に近いと推測して、中国のより古い武術がかつて伝えられて土着化したとする説もあるが、立証できる文献もなくあくまで推測の域に留まっている。他にも、「シマ」(沖縄角力)から発展した説、日本本土から柔術が伝来した説などがある。

手の時代の武人達 [編集]
古くは16世紀の「京阿波根 実基」(きょうあはごん じっき)が手の使い手だったという伝承がある。時代が下って、18世紀の西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、真壁朝顕などが手の時代の武人として知られている。

カニュ デルタ アルベド プロシ ドハウツー ドワイン ドッグカ プレート セレフ ちくせい ファック ろっか クロス ティア パズル データ バビロン ジョドパー ニヒリ ドライ スパーク イカット パプア セコイア 道のかなた あみん ロポリス ラバード トニク ヘリオト ドリーム ナビタフ フリクシ 星屑 イメチ 栗マロン テネシー マクラ トランサー ドルーズ ロボット ルーティン 美しい コロラド デイジー すうせい スパコン キンカン ぴーたん れんが

2009年03月20日

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

インドの東北部に位置し紅茶で有名なダージリン地方を走る鉄道である。登山鉄道として知られる(最高点は標高2143メートル)。

1879年にインドを当時植民地にしていたイギリス(大英帝国)が紅茶の輸送と避暑客の便宜を図るために建設を開始し、1881年7月3日に開通した。

ダージリン間の約88kmであるが軌間610mmのナローゲージを使用した軽便鉄道でありループ線が3箇所、スイッチバックが6箇所もあって高低差約2000メートルを登る登山鉄道でもあるため速度は遅く、走破に7?8時間を要する(表定速度10km/h強)。並行して同区間を3?4時間で結ぶバスも走っており、地元ではそちらの方がよく使われている。また街中を走る区間も存在し前述のように列車の速度が遅いため、走行中に飛び乗る乗客も多いという(小学校の前では小学生も飛び乗り・飛び降りを行う)。また、昼食時にはオーダーにより途中駅で供給される車内食も利用できる。

1999年11月には、オーストリアのゼメリング鉄道についで世界で2番目の鉄道の世界遺産に登録された。2005年にはニルギリ山岳鉄道も加え、「インドの山岳鉄道群」として拡大登録された。前述のループ線、スイッチバックを世界で初めて取り入れた鉄道であるほか砂撒きなど登山鉄道としての工夫が随所に見られる。
きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

開業時から使用されるイギリス製の蒸気機関車は、最古のもので110年にわたり使用されている。老朽化して故障が多いため、一般の列車はディーゼル機関車牽引に世界遺産登録後置き換わったものの観光資源となっているため蒸気機関車牽引による列車が一部で走っている。鉄道ファンなどには、トイトレイン(おもちゃの汽車)とも呼ばれる事がある。ただし老朽化に伴うに機関車の故障に伴う延着・途中駅での運転中止は日常茶飯で、特にダージリン行きは10時間以上要する場合がある。また途中駅での運転休止の場合は、そこから乗合自動車などをチャーターして以降の駅に向かうこととなる。

また当鉄道には専用の修理工場があり、パーツの1つまで砂型に溶けた鉄を流すところから手作りし世界遺産であるこの鉄道の維持に貢献している。

2009年03月05日

ドモヴォーイ/ドッペルゲンガー

ドモヴォーイ(домовой, domovoj)は、ロシアの家の精。家を守り、だいたい、暖炉の下や地下室、または玄関に住まう優しい気質の精霊で、新しい家にドモヴォーイを招くには暖炉の下にパンを一切れ置くとよい。また、ドモヴォーイにはドモビーハという妻がいるとされている。妻は床下に住んでいるとされる。 

ウクライナではドモブィックと呼ばれる。イングランドのブラウニーと同じものである。名前はロシア語で「家」、「家庭」を意味するドムに由来する。個々の家庭の守護霊として住み着き古代の先祖の精霊から生まれたものであろう。普通、灰色のあごひげを生やした毛深い老人として描かれる。ドモヴォ?イは火と暖かさが好きで怒らせると火災にあう。夕食の1部をそなえる。家族が引っ越すときはドモヴォーイも暖炉から燃え木に沿って新居に引越しするという。またチェロヴィック(あの人)、でドゥシュカデドゥコ(おじいさん)との遠まわしな言い方で呼ばれる。 仕事は家族に危険が迫っていることを知らせたり悪い精霊や侵入者から守ったり未来予知することである。

ドモビーハがしゃべることはないが、ドモヴォーイはおしゃべりな精霊で、彼が優しくつぶやいている声が聞こえてくるときは平穏に暮らせる証であるが、すすり泣いたり大きな声でうなっていると、それは家族に不幸が起こる兆しになる。また暗がりで触ったら暖かく毛深い感じなら幸運、冷たく湿っているなら不運といわれている。

人間がドモヴォーイの姿を見ることはとても稀なことであるが、それは同時にとても不幸なことである。もし、彼の姿を見たのなら、その家族は新しい家を求めて引っ越した方がよい。

ドモヴィークとその仲間たちはかつては天国に住んでいたが反乱を起こして地上へ落ちてきたといわれる。 家の中でなく周囲に落ちてきたのがドヴォロヴォイ、バンニク、オヴィンニク、フレヴニクであり人間に警戒心を持っている。荒野に落ちてきたのがポレヴィーク、レーシィ、ヴォデアノイ、ルサールカであり人間に悪意を持っている。

ドッペルゲンガー(独: Doppelgänger)は、「生きている人間の霊的な生き写し」を意味する。ドッペルケンガーと発音する場合もまれにある。単純な和訳では「二重の歩く者」となる。

ドイツ語の「ドッペル (doppel)」は、英語の「ダブル (double)」に該当し、その存在は、自分と瓜二つではあるが、邪悪なものだという意味を含んでいる。

以上の意味から、自分の姿を第三者が違うところで見るまたは、自分で違う自分を見る現象のことである。自ら自分の「ドッペルゲンガー」現象を体験した場合には、「その者の寿命が尽きる寸前の証」という民間伝承もあり、未確認ながら、数例あったということで、過去には恐れられていた現象でもある。

ドッペルゲンガーの特徴として、

ドッペルゲンガーの人物は周囲の人間と会話をしない。
本人に関係のある場所に出現する。
等があげられる。

アメリカ合衆国第16代大統領アブラハム・リンカーンや芥川龍之介、帝政ロシアのエカテリーナ2世等の著名人にも、自身がドッペルゲンガーを見た、という記録が残されている。

ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域に脳腫瘍ができた患者がドッペルゲンガーを見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディーイメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。ワイルダー・ペンフィールド博士がおこなった実験によって、正常な人でも、ボディーイメージを司る脳の領域に刺激を与えると、肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するように感じられることが確認されている。クラウス・ポドル博士は、ドッペルゲンガーは脳腫瘍に限らず、偏頭痛が発生する原因となる脳内の血流の変動による脳の機能の低下によっても引き起こされるとしている。

このように脳がなんらかの機能障害を患い、死期が近い人物がドッペルゲンガーを見る、という事から「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という民間伝承が生まれたとも考えられる。また、自分のドッペルゲンガーを見た人はそのドッペルゲンガーによって殺されるという噂もある。

しかし、これらは依然、仮説の域を脱していない。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」の事例もあり、上述の脳の機能障害では説明できないケースが認められる。いずれにしろ、しばしばオカルト的な捉え方をされる場合もある。
リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

1990年代に流行したテレビドラマシリーズ、ツイン・ピークスにもドッペルゲンガー現象が描かれている。

ポピュラー・カルチャーの中のドッペルゲンガー
ドッペルゲンガーは、サイエンス・フィクションやファンタジー小説などにもよく登場する。そこでは、不埒な目的のために、特定の人や生き物になりすますシェイプシフターとして描かれている。また、前述の民間伝承にある「死の予兆」を反映させて、なりすました人物を殺害して、周囲の人に知られずにすりかわるというものも存在する。ただし、ドラえもんのように、同一人物がタイムトラベルによって、同じ時間軸で存在するのはドッペルゲンガーと呼ばれる事はない。また、科学的なクローンも、同じく当てはまらない。

2009年02月13日

SEEK2 -SADISTIC BABYLON-

陣取り いなか ストメ ワイス さんぼんぎ アント システイン キーホ ワッシャ ネゴシ メモワ パフェ トーキング マラニッ 筆柿 キーノ テレコズ マヨラ プライ ドアミラ リンクサデ ポート エコロジジー エバー ナフタ レポート エス スキトル オーピー マドラサ スパニ パウダー フィル 夏の稲妻 シグサ ツバル タンゼロ ラスバンド アウトカム 黒い塔 ブルンジ ピエール オーバ タリフ ミンス シェルカ スパラ ヌードル モノクロ ミーシー

主人公はフリーカメラマンの北原雅之。生活のためどんな仕事をも引き受けながらそれなりに生きてきた彼の元へ、再婚してドイツに行った母が亡くなったという知らせが届く。ドイツ人の画商と結婚した母は、義理の娘マリノと暮らしていたが、1年前に夫に死に別れていた。両親を失ってしまったマリノのもとへと急ぐ主人公。しかし悲しみにくれる間も無く、雅之の目の前でマリノがさらわれてしまう。

マリノを誘拐した犯人は、マリノの父に故沢渡博之の名画とされる「飼育」の入手を依頼し、手付けに1億円という大金を渡していたのだという。「飼育」を手に入れるか1億円を返すかのどちらかを迫られた雅之だったが、貧乏カメラマンである彼にはなす術が無い。

そんな雅之のもとに李麗蘭という美女が現われ、自分の調教館で2ヶ月働いて、きちんと奴隷を調教しきれば、1億円を融資するという。もちろん、失敗すれば融資は無かったことになるどころか、秘密保持のために香港マフィアに何をされるかわからない。

万策つきた雅之は李麗蘭の誘いに乗るしかなかった。しかしなんという運命のいたずらか、その調教館に送られてきた牝奴隷候補のなかに、助けるべきマリノの姿が・・・。果たして彼は義妹を救えるのか?失われた名画「飼育」の行方は?
主人公(初期設定:北原雅之(きたはら まさゆき))
貧乏カメラマン。生活のために三流SM雑誌のグラビアを撮っていたために、李麗蘭に調教師になるよう勧められる。プレーヤーキャラクター。
李麗蘭(り れいらん)
自分ではレイラ・リーと名乗る調教館の女主人。華僑の家に生まれ、チャイナドレスを着こなす東洋美女。長い黒髪をストレートにしており、少しきつい眼は心の奥まで見透かすような鋭さを持つ。性的倒錯者であり、SM調教を楽しんでいる。世界的な秘密のSMクラブ「黒い薔薇」や香港マフィア「龍爪(ドラゴンクロー)」とも接点がある妖しげな女。
マリノ・パレンバーグ
メインヒロイン。双子座の美少女。ドイツ人と日本人のハーフであり、肩までのナチュラルブラウンの髪をしている。はかなげな印象をもつ少女だが、父のSM趣味に気付いており、調教を受けることになった自分の運命を受け入れている。義兄である雅之に愛情を感じており、雅之に調教されるならば本望と思っている。調教目的はとにかくSMやSEXに慣れさせ一人前の奴隷にすること(処女のため)。
高橋由架(たかはし ゆか)
3月2日生まれ。深く物事を考えない性格で、風俗店に勤めている。SMクラブのオーナーに、一流のM女になればたんまり稼げるといわれ、調教を受けにやってきた。調教目的は、一流のM女にすること。
坂本恵子(さかもと けいこ)
1月6日生まれ。短い黒髪をおかっぱにして眼鏡をかけたまじめそうな女性。クリスチャンであり、幼少の頃から性的なことをタブー視してきた。愛人関係にある代議士が、彼女の心の奥には被虐願望があると考え、SM調教を受けることでそれが目覚めるのではないかと期待して館に送り込んだ。調教目的はSMやさまざまなSEXを楽しめるようにすること。
細野亜矢美(ほその あやみ)
12月8日生まれ。現役の人気歌手であり、知名度は高い。わがままでプライドが高いが愛人関係にある有名音楽プロデューサーの勧めにしたがい館に来た。他の3人より遅れてやってくるため調教期間が短い。仕事上の打算でやってきているために調教目的は素直で可愛い奴隷にすること。
イズム
館の少年執事。金髪をオールバックにした美少年。レイラの代わりに主人公の食事や身の回りの世話をする。彼にはある秘密が・・・。
道具
道具、またはドッグと便宜上呼ばれる名も無い壊れた牝奴隷。調教途中で精神が崩壊してしまい、ろくに話せない。普段は檻に入れられ、主人公の性欲処理や雑巾がわりに使役されている。調教の道具としても使用される。ぼさぼさの金髪を無造作にのばしており、イズムがときおり手入れをする。彼女の過去にはある秘密が・・・。
沢渡貴之(さわたり たかゆき)
大倉真梨乃(おおくら まりの)
岡崎桃美(おかざき ももみ)
内海遥(うちうみ はるか)
前作SEEKの登場キャラ。世界的秘密SMクラブ「黒い薔薇」のパーティーで、真梨乃の公開調教ショーが行なわれた際に登場。桃美と遥は責められこそしなかったが、会話から奴隷に準じる立場にいることをうかがわせる。
矢沢沙貴(やざわ さき)
前作SEEKの案内人役。前作SEEKのトゥルーエンドでは生死不明になるためか、雅之の持っていた沢渡博之の本に載せられた代表作(絵)としてのみ登場している。ただ「黒い薔薇」のパーティーで進行役をしていた女性が(マスクのため顔はわからないが)髪型や雰囲気が良く似ている。
沢渡博之(さわたり ひろゆき)
前作SEEKにも登場。世界的に有名な責め絵画家である。故人。本作では彼の遺した「飼育」という絵がバックストーリーの軸になっている。

2009年01月27日

サーブ 37 ビゲン

サーブ 37 ビゲン(SAAB 37 Viggen)はサーブ 35 ドラケンの後継として、1970年から1990年にかけてスウェーデンのサーブによって生産され、スウェーデン空軍のみによって運用された戦闘機。対地攻撃任務主体型のAJ 37に始まり、偵察型のSF 37, SH 37や戦闘任務主体型のJA 37などへと派生した。なお、愛称のViggenは英語のbolt(稲妻、電光)にあたり、スウェーデン語の発音に最も忠実な表記はヴィッゲンであるが、本項では慣用読みであるビゲンを用いる。

ドラケンの後継機の基礎研究は1952年から1957年にかけて行われた。前作のドラケンに続き、核攻撃を受けて主要な航空基地が能力を失っても、通常はシェルターに格納しておき、一旦有事には高速道路のような非正規の滑走路からでも迎撃可能な優れたSTOL性を有する、堅牢な単発戦闘機という開発目標が掲げられて、試作機は1964年に製造着手、1967年に初飛行した。
ミネア あさひか ストレ マッチ アック 繊細 せいじゅ パワーサプ ランドロ ステイ ヒート メキシコ エグゼ べにあか センリョウ アーバン オーバ ロッキード やっこだこ パターン カピバラ アフガン サーボモ メリー 望郷の月 じゅご リンガ モルデ パトス キャンサド ティン デジタル ネクスト ノーショー コンファー ビオチ クレーション フィーマ カーラジオ バビア ナビノニ やまんば デーゲーム 世界の家 ブービー ドゥク サイダ ジャージー ベンダー フレーター

超音速迎撃機にSTOL性を付与することに初めて成功したドラケンだったが、進空と同時に幾つかの問題点が明らかになった。特に滞空時間の短さ、スーパーストール癖による飛行安定性の悪さ、離陸時に路面舗装を傷めるため同じ場所に帰投できないことなどで、FMV(Försvarets materielverk, 防衛装備局(庁))は、ドラケンの優れた能力を維持しつつ、臨時滑走路が高温のジェット排気によって損傷しないよう小さな迎え角で離着陸できる能力、航続距離の延伸、マルチロール化など、更に過酷な仕様を提示した。

こうした地政学的要求を達成するため、ドラケンで世界初のダブルデルタ形式の翼平面形を実用化したサーブ社は、デルタ翼にカナード(前翼)を付加する、またもや前例の無い独自構成を選択した。これは、低揚抗比から離着陸時に大仰角を強いる三角形の主翼(デルタ翼)の原理的欠点に対し、その前方やや上方に小ぶりの翼(カナード)を配置し、低速大仰角時に発生する主翼上の渦流を積極的にコントロールすることで揚抗比を大幅に改善しようとするもので、この目論見は成功し、ビゲン以降、カナードとデルタ翼の組み合わせはクフィル、ユーロファイタータイフーン、ラファールなど、他のジェット戦闘機にも一般的に用いられるようになった。

比較的大面積のカナード自体が常時揚力を発生することから、ビゲンは現代における複葉機ということもできる。また村落の牛舎などを摸したシェルターに格納し一般道から離着陸するため、全幅が切り詰められるなど、ドラケン同様に同時代の競合機に比べ一回り小型に納められた結果、幾分改善されたとはいえ航続距離は従前短い。

JA 37のコックピットアメリカとスウェーデン間の軍事技術協力に基づき、ビゲンの開発に当ってはアメリカからの技術供与が開始された。アメリカは安全保障政策の一環として、スウェーデン南西海岸に派遣中のポラリスSLBM搭載原潜を防備する強力なスウェーデン空軍を望んでいたが、その一方で、世界有数の超音速戦闘機ドラケンを自力開発した永世中立国スウェーデンが、軍事産業を更に発展させ東側諸国にも販路を広げることに楔を打ち込む側面もあった。

動力には低バイパス比ターボファンエンジンRM8A (AJ 37) とRM8B (JA 37) を採用したが、これらは本来ボーイング727など民間旅客機用のプラット&ホイットニーJT8Dに、ライセンス生産社のスヴェンスカ・フリグモーター(後にボルボ・フリグモーター、現ボルボ・エアロ(2008年現在))がアフターバーナーを後付け改造したものだった。これはJT8Dの原型である、アフターバーナー付軍用版J75の輸出禁止措置解除が果たせなかったための苦肉の措置である。

RM8Aではファンと低圧圧縮機がそれぞれ2, 4段であったが、RM8Bではそれぞれ3, 3段に変更され、重量と推力がともに若干増大している。また着陸滑走距離を短縮するため、戦闘機では極めて異例なスラストリバーサー(逆噴射装置)を独自開発して追加し、およそ500mでの急制動を実現している。このスラストリバーサーを地上で動作させれば、自力で後退することも可能である。ちなみに、アフターバーナーとスラストリバーサーの両方をもつ戦闘機は、ビゲンとトーネードの二種のみしかない。

後継機JAS 39 グリペンでは、ビゲンと同様に制動距離を短縮するため、全遊動式カナードなどのエアブレーキが最大限に利用されている。その他ほとんどの機種では、着地後にドラッグシュート(制動用パラシュート)が用いられる。

派生型

スウェーデン空軍博物館にある真紅のビゲンスウェーデン空軍による最初の運用部隊は1972年にSåtenäs(ソーテネス?)で編成され、対地攻撃任務中心型のAJ 37を運用した。A (attack) は攻撃、J (jakt) は戦闘任務をそれぞれ表している。108機のAJ 37と18機の複座練習機型SK 37 (skol) の引き渡しに続き、28機の写真偵察型SF 37 (spaning foto) と28機の海上監視型SH 37 (spaning havsövervakning) が引き渡され、それぞれドラケンの偵察型 S 35 とランセンの偵察型 S 32C を代替した。ビゲン派生型の最終タイプは迎撃(戦闘)任務中心型のJA 37であり、1974年9月27日に初飛行し、149機が1980年から1990年にかけて引き渡された。

ビゲンに対しては、コックピット周りと兵装関係を中心に、何年にも渡ってさまざまな改修が行われたが、後継世代であるJAS 39 グリペンの登場とともに段階的に姿を消していき、2005年11月25日の飛行を最後に退役した。

輸出の失敗
ビゲン独特の運用柔軟性は非常に高く評価され、共に狭隘かつ平地の少ない国土である日本を含め、世界中で購入話が持ち上がったが、結局輸出はなされず運用者はスウェーデン空軍のみに留まった。輸出失敗の理由として、スウェーデン政府が非民主化諸国に対する兵器輸出を比較的厳しく制限したこと、買い手国がスウェーデンにとって好ましからぬ軍事的衝突を起こした際に継続的なサポートや部品供給がなされるかという不安、大国(特にアメリカ)からの強い外交圧力などが挙げられている。

インドへの輸出が検討されていた1978年、アメリカはRM8/JT8Dエンジンに輸出許可を与えないことで間接的にビゲンの輸出を妨害し、インドには代替としてジャギュアを購入するよう強制した。これと類似したケースとして、イスラエル製のクフィルも、アメリカがJ79エンジンの輸出許可を出さなかったことが一因で、輸出はエクアドル、コロンビア、スリランカの3ヶ国に止まっている。

航空自衛隊も、ビゲンをF-86とF-104の後継機候補の一つに挙げ調査団を派遣したが、対地攻撃を重視した戦術戦闘機の性格が強く、防空戦闘機としての能力は前作のドラケンを上回るものでないこと、特異な飛行特性(当時複座型がなく操縦させてもらえなかった)と、語学的障壁も併せた上記の遠隔サービス体制が懸念され、また島国であり離島を抱える日本には航続距離・滞空時間が短すぎると判断されて、採用には至らなかった。